まいにちの楽しみ

千夜一夜のお話…毎日の発見を分かち合えたら。

アップサイクルとは?SDGs運動から考える

今日の中高生新聞に、

アップサイクル、リサイクル、リユースの違い

についての特集がありました。

おっと、違いを聞かれてもぱっと説明できないなあ・・

・アップサイクル 「別の価値がある」製品に作り変える

・リサイクル 回収された資源を再び「同等」の素材にして使う

リユース 一度利用した製品を「そのままの形」で使う

ふむふむ。わかりやすい。

リユースはいわるゆお洋服の「お下がり」が代表例。

リサイクルは再生紙などが身近ですが、元の素材よりも品質が劣化してしまう「ダウンサイクル」が多いようです。ダウンサイクルでも人目につきにくいもの、デザインでカバーできるものであればさほど気にならないですね。

最後にアップサイクル。

これが一番難しいんじゃないか?と思いました。

実はこのアップサイクルは今に始まったことではなく民藝の世界には色々あるのです。

例えばかつて東北地方にあった裂織り。着古した木綿の着物を細く裂いて糸として織り直し、座布団やバッグなどにしていたのです。リサイクルともいえますが、一部の美しいもの芸術性の高いものはアップサイクルに当たると思います。

で、この裂き織を今もやる人がいるのですが、わざわざ古い着物をデパートで買ってきて裂いて織ったりするんです。初めてそれを見た時にえっ!っと思いました。お金払って買って?着れる着物を?と。できた裂織りの物も悪くはない。なぜなら元の着物の品質がとても良いから。でもね・・・巧いけど美しくないんです。しかも一見エコに見せかけてるけれど、これはなんか違うって思うんです。

そもそも、東北地方にあった裂織りの美さは、その時代の背景が生み出したものだと思うんです。

その背景って何?となるんですがそれは、

「今では考えられないくらい日頃から物を大切にしていた」

だと思うんです。

例えば着物だってワンシーズンにひとり1〜2着を持っている程度だったんじゃないでしょうか?

であれば、裂く時も織る時も用途を考える時も手を心を最大限に使いますよね。

アップサイクル成功の核心は「用の美」があるかどうかだと思うのです。とても大切にしていたものを(もしくは品質のよいもの)、どうしても必要だから、心を深く使って別の形に作り変える、だからデザインだなんだと狙わなくても自然に生活になじむ形として美しくなる、だと思うのです。

インドにも「カンタ」という古布を再利用する民藝がありました。過去形なのは今は日常生活でそれをする人がいないからです。当然ですよね・・・

さてこのカンタ、主にサリーなどの古布をいく枚か合わせて刺繍を施し、丈夫に仕立て直した上で敷物などに作り変えます。

カンタが本来の必要があって作られていた頃の作品を本でみたのですが、圧巻です。動植物だけでなく架空の生物?渦巻、当時の人々の宇宙観などが散りばめられています。心を込めて大事に刺繍するとこんなにもインスピレーションが降ってくるのか、と思いました。

さて、今物溢れの時代にこのカンタをやってみても絶対に当時の刺繍を超えることはできません。

有名な刺繍作家の方がそれに挑戦した作品も見たのですが、「巧く温かい」ものではありましたが「感動」するものではありませんでした。

今、自分がいる時代や環境を無視して物を創ると、ただの真似事になってしまうのでは?と思いました。

実は物が多すぎると心の使い方がとても難しくなるのでは、と感じています。心のエネルギーの出しどころが分かりにくい、とでもいいましょうか。

ところで難しい、ということは乗り越える壁がある、必要だ、ともいえますね。昔の人が物がなくて難しい、という壁を色々な形で乗り越えたように。

アップサイクルも見せかけのデザインや昔の真似事ではなく、現代という時代の背景と調和して「心」を使っていけば、きっとうまくいくと思うのです。

なぜ運動会でソーラン節とエイサー?

運動会の季節です。

小学校では4年生でエイサー、5年生でソーラン節(現代版アレンジ)を踊ります。

なぜ、エイサーとソーラン節なの?と疑問におもっていたのですが・・・何となく理由が分かってきました。

私の仮説ですが、

『ここからここまでが、日本だよ』

と理屈抜きで教えるためではないかと思うのです。

で、子供に学校で教えるだけではなく、両親兄弟姉妹や祖父母もやってくる運動会で披露する。

これを何十年も続けていれば日本人の大半がエイサーとソーラン節は「知っている」ことになります。

北海道や沖縄が日本だってことくらい知ってらあ〜と思いがちですが、歴史を振り返るとこの2つの地域は本州にあった大和王権や歴代の幕府などの支配勢力「外」の時期が長いのです。

それは隣国の影響を受けやすい、もしくは支配下にあったといえます。

人口の大半が居住する本州から遠く、やや親近感が湧きにくい地域ゆえに、注意が必要なのかもしれません。

小さい頃エイサーやソーラン節を習って歌える踊れる。

もし将来その土地へ突然隣国が侵攻してきたら?

なんとなく身を削られるような痛みを覚えるはずです。平然としていられない、この感覚を忘れないためにきっと踊っているのだと思います。

 

めぐるスピードが速くなっている

今のノーマル、平常運転と思われていることが100年前の世界ではアンノーマル、極めて非常な物だったことなんていくらでもありますね。

 

例えば、携帯電話。

場所問わず個人と個人が一瞬で繋がる。

テレパシー?というような代物です。

心臓ペースメーカー。

電気信号を作り出し、心臓を動かしています。

科学技術に支えられた物だけでなく日常の習慣にもありますね。

例えば、お中元お歳暮の衰退、これは目上の人を無条件に敬うこと、お世話になった人への恩を忘れないという観念を慣習化したものです。

ところが、人間関係というのは常に変化しています。(常に変化していることを『無常』といいますね)そしてこのお中元お歳暮というのは一方通行でないのです。頂いた方はその分目下の者を好遇し、ビジネスでは変わらず仕事をあげるという暗黙の了解があります。

たまに贈り物がなくなったとがっかりしていることがありますが、関係が変化していることに気がついていないのです。

庭木が新芽を吹いて、たくさんの葉をつけ、実を付け、やがて葉は枯れ落ちる。そしてまた新しい春を待つ。

全ての事がこのように巡り巡っているのです。

ここ最近、この巡りめぐるスピードがとても速くなっているのです。とても重要なことですが、新幹線に乗っていてスピードが上がってもあまり気がつかないのと一緒で惰性で暮らしていると気がつきません。

スピードが速い、ということは1年前の良き思い出、成功、失敗、さまざまなことにしがみついて思い出ばかりで生活していては、あっという間に100年前の人になりかねないのです。

ひょっとしたら5年後はもうスマートフォンではないかもしれないのですよ?

今、心が躍るもの、私を元気づけてくれるものを選択し、過ぎた失敗は捨て去ることです。

どんなことでもよい、新しい新芽を吹かせ続けましょう。

見えない聞こえない

物理的な話ではありません。

人間は見たいように見、聞きたいように聞く。

目も耳も等しくついてますが、その使い方は1000人いたら1000通りあるわけです。

例えば、全く同じ書道の筆を持っても、1人として同じ書にはならないように。

同じ環境にいても見えなければ、聞こえなければ立ち止まることがありません。

ここで人間同士の違いが生まれてしまいます。

よく、同じ環境で育ちなぜこうも違うのだろう、という場合があります。

失敗ばかりで疎まれるのは見ない、聞かない、何もしない、もしくは無謀だからなのです。

見た、聞いた、実践したから成功するのです。

とてもシンプルです。

どうしたら見えるのか?聞こえるのか?

自分は生かされているのだ、と素直に受け入れることです。

タダから得られるもの つづき

タダ、無料!

エネルギーを出さず、何かしてもらえる。

魅力的?虫のよい話?

いえいえ、善意の奉仕活動を除いて、

①知らない間に同等かそれ以上の対価を取られている

②無責任

この2つが付き纏います。

まず①について。

向こうが取った対価が分からない、もしくは分かりにくくなっているので、同等かそれ以上の対価を取られてしまっていることに気がつきません。

よくあるのが懸賞やアンケートですね。

普通、見知らぬ人から突然DMを送りたいからあなたの住所と電話番号と性別を教えてください、と言われたら教えるのでしょうか?教えないですよね。

ところが、今登録すれば抽選で〇〇が当たりますよ!無料プレゼントしますよ!という形をとってあなたの情報を得るのです。無料プレゼントが500円のQUOカードだったら同等以上の重要情報を差し出してますね。

②無責任について。

タダや無料には常に無責任さがつきまといます。

支払いに対する責任がないので、たとえば無料カレーを提供!とした場合、無責任な作り手は賞味期限切れのカレールー、出所不明確な豚肉を使っていても、これどうせタダなんだから具材は何だっていいよ、食べる方からお金もらってないし。となります。

ここである事に気が付きます。

ネット上のあらゆる情報です。

タダですね。無料カレーと一緒です。

最近は文責を掲載しているケースもありますが、全くない情報もたくさんあふれています。

ネット情報を閲覧する際はそれを味わうだけの過去の経験、文章を理解する力・・・たくさんの能力が必要になり難しいのです。何が入っているか分からない無料カレーの正体を突き止めるのがとても難しいように。

質の確かな情報というのはタダではないのです。

欲しければ身銭を切るか、同等のものを相手に与えることです。もし私には与えるものがない、という人は身近な人から助け舟としてもらえた良い情報を大切にして生活に生かすのです。そしてその事によって生活が良くなったと、情報の発信者へ感謝して戻すとまた新たな情報が与えられるのです。循環の輪が生まれます。

昔からいつもツイてない、という人はこの循環の輪の中にいません。

私は困っているのだから恵まれた人から情報をもらって当然という顔をしています。実は感謝をすることも金銭に匹敵するかそれ以上に与える行為です。

人は本当に困った人に対して一度は助け舟の情報を与えてくれるものです。そのことによって助かった、と心から感謝を伝えれば、自然と輪の中に入るものなのです。

知り合いでいつもツイておらず借金ばかりの人がいます。自分がいつも一番でいたい俺が俺が、なのですね。身近な家族からたいへん良い情報がもたらされていても傲慢さらか気がつかず、親しくもない社会的地位がある人物の情報を鵜呑みにして上手くいかずお金を失っています。

それでも泣きついて愚痴をこぼす相手は家族なので、大変な迷惑ですね。そうなると家族も情報を与えなくなります。そして彼の情報も信用しませんから受け取らないのです。こうして循環の輪から弾き出されどんどん貧しくなります。

さて、あなたは今日どんな情報を

どこから、誰から、得ましたか?

対価は払いましたか?無料でしたか?

物物交換でしたか?

それが役に立った時、感謝の心を伝えて、、自ら循環の輪を作るのです。

タダから得られるもの?

今ならタダ!無料です!

こちらは何も出さないのに、向こうから何かを得られる、というとっても虫のいいキャッチフレーズ笑、ついつい惹かれちゃいますね。

タダには色んなものがあります。

例えば、今吸っている空気はタダ、ですよね。

自然界からいただけるものは基本タダなのです。

ところが、人間からいただくものはどれもこれもお金が要ることに気がつきます。

蛇口の水も本来は川の水ですからタダのはずですが、浄水したり管理したりと、人間が介在することでタダではなくなります。

そう、つまり人間が手を加えたものをいただくときに無料、タダ、というのは原則あり得ない話なのです。

ところがお金がいらない場合もあります。

その場合は交換という方法を使ってお互いの持てるものをやりとりします。

友達関係に多いですね。たとえばあの時貸してもらったから、相手困っている時には貸してあげる、などです。ここにお金を持ち込むと何だか良くないというのは誰しも経験があることでしょう。

昔、保険の外交員を始めた知人が保険の売り込みに来たことがありましたが、やってはいけない行動のひとつですね。仮にこちらもウオーターサーバの販売員をしていて、同時に契約してくれるなら交換関係のままなのですが・・・笑。

つづく。